今朝、通勤途中で交通事故現場を見た。車が3台フリーウェイの路肩に止まってて、一台は横転した上に前後反対向きになって(進行方向と逆向き)、ガラスは割れてて。どうやったらあんな事故になるのか分からないけど、とにかく怖っ。と思った。
今日ふと、コドモができたらBlogさせてみたいなーと思った。お古のデジカメでもあげてー。パソコンも教えてあげたり。まあ、その頃にはもっと新しいツールとかもあるだろうけど。理由はただ単に、自分でやってて楽しいから。嫌がるなら別に無理強いはしないけど、ある程度の年齢になればコドモも楽しんでくれるんじゃないかな?何を書いてるかちょっとのぞかせてくれたら嬉しいけど、ティーンエイジャーになったらちょっとムリかなー。なんて、コドモもいないし今のところ予定もない(笑)のに、考えてみた。
今の日記みたいな雑文だらけの私のBlogってほんとに感じた事を書いてくのがいちばんって思ってはいるんだけど、それはなかなか難しくて、頭の中で「それなり」の文章を作ってしまう自分がいる。もっともっとこれを通して自分をむき出しにしていけたらいい。それは私という人間や生活のディテールを書き込んでいく事ではなくて、自分が本当に思った事や考えた事を的確に文章にできる能力を身に付けていく事。仕事でもないのになんで?とも思うけど、自分の中ではそれってずいぶん大事なことだと思う。
小学生高学年から高校の初めのほうまで、ずっと日記をつけてた。大学の間はすっかり休んでたけど、今は切れ切れになりつつも、1年前くらいから続けてる。書くことが嫌いじゃないのもあるけど、続けてるのは「日記の利点を知ってるから」だと思う。その利点っていうのは、ただただ、「じぶんをみつめる」ことに尽きる。なんだかまじめで笑っちゃうけど、これをやってると結構、精神的安定にも役立つよ。
例えば、嫌なことがあってものすごく落ち込んだらそれを書く。細かいことを書かなくても、後から見れば自分ではちゃんとそのときの事を思い出せる。そして、時間が解決してくれたことを実感できる。つまり、未熟さを書き残していく・後からそれを自分で笑う、ってことなのかもしれない。
それから書くことによってほんとに思ってる事をはっきりさせることができるのももちろん利点。後から思い出す事もできるし。忘れていくことも必要だけど、戻ってきてそのときの気分を思い出して、結論が出ることもある。
そう考えると、Blogや日記って親しい人との会話とちょっと似てるかもしれない。会話は記録が残るわけじゃないけど、「思い」は言葉にするまで不安定なもので、会話や文章にするとそれが自分をさらに納得させる。自由に好きな事を言ったり書いたりできる場所があることは、今の自分の「思い」をがっちりつかむのを助けてくれると思う。
だから私にとってのBlogは、自己満足。それを表に出してる理由は、多分「会話的な」利点を求めてるから。つながりや受け止めてくれる人を探してるんだと思う。
Comments
“Blogと日記と。” への5件のフィードバック
こんにちわ.はじめまして.
何人か高校生の方のBlogを見ていますが,日常を綴って,
回りにいないような思わぬオトナ(?)から反応があって…というようなやりとりはすごくよいものに思えます.
私も日本にいる人たちや他のどこかにいる人たちとこんな風にやりとりできてることはネット、blogならではだなーと思います。
こんばんは。
>「思い」は言葉にするまで不安定なもので、~
今の自分の「思い」をがっちりつかむのを助けてくれると思う。
まさにNaoさんの言われるとおりと思いました。
すっごく共感しました。
自分の場所、っていうものがあるのはやっぱりそれが何であれ、落ち着きますよね:-)
書くことって考えるだけよりも難しい…けど、
それが形にのこって自分の場所みたいになるのが楽しい、
ってかんじです。
なんか照れくさいですけど(笑
見直されてきた日記
blogという存在で日記というものが見直されてきた、ともいえるんじゃないですか。もしくはblogの存在で、日記をワケわかんねーでなんとなくつけていた人が、blogの存在で自分がやって…